平戸の歴史にふれる
平戸島を語る
長崎県北部に位置する平戸市は、もと松浦氏の城下町で古くから中国大陸との交易、1550年にポルトガル船が入港してからは南蛮貿易の開港場として栄えました。
平戸島(ひらどしま)は日本で20番目の面積を誇り、島の北端「田の浦」から南端「宮ノ浦」までは約45km、車で約1時間ほどの道のりです。東側の九州本土に最も狭いところで約570m、ここに平戸大橋があります。
まわりに点在する島は、度島(たくしま)的山大島(あづちおおしま)生月島(いきつきしま)高島などがあり、度島と的山大島は平戸港から、高島は宮ノ浦漁港から船の便が出ています。
島に沿って標高200m~500mの山地が2列に連なり、平戸の1/5は西海国立公園に指定されていて美しい海と大自然が広がっています。
歴史浪漫
平戸城
平戸城天守閣からは平戸の市街地と南蛮船が出入りしていたロマンの海が見えます。かつて「松浦党」と恐れられた松浦氏が平戸城の藩主。元軍(モンゴル)が日本に侵攻してきた元寇の際、めざましい活躍をしたのも松浦藩なのです。
出島と平戸
出島は、もともと長崎に来るポルトガル人を管理するために1636年に長崎港に造られた人工島です。1635年(寛永12年)中国貿易が日本各地で行われていたものを長崎のみに限定(長崎集中令)その後に幕府がポルトガル人を国外追放・ポルトガル船来航禁止にしたため、出島の空いたスペースをオランダ商館・オランダ人居留地として利用するようになりました。
平戸の歴史
平戸島は遣隋使・遣唐使の時代から海外との重要な交通拠点で、平安期には「ひら」「ひらのしま」と呼ばれており肥前国と島の間の瀬戸が「ひらのと」と称され、これにちなんで鎌倉時代から「平戸島」と呼ぶようになりました。
鎌倉時代中期、日本の防備が無かったため元軍は日本軍の襲来に備えて平戸島に塁を築いて陣地を構築したと言われています。元軍は日本側との海戦で継戦か撤退かを巡り軍議が行われ平戸島に在陣する軍勢は撤退していきました。
1550年(天文19年)にポルトガル船が来航し、平戸港は南蛮貿易港として栄えていきます。フランシスコ・ザビエルをはじめとするイエズス会宣教師によってキリスト教(カトリック)が布教されましたが、キリスト教弾圧の舞台となってしまうのです。
1584年(天正12年)にはイスパニア(現在のスペイン)・イギリスの船も来航。また1599年(慶長4年)には平戸藩初代藩主となる松浦鎮信によって最初の平戸城築城が始まりました
その後の鎖国政策によって1623年(元和9年)平戸港における南蛮貿易が終わり、以後平戸藩の城下町として栄えていくようになります。
時を重ね、1955年(昭和30年)に平戸市1市体制となり、2005年(平成17年)に周辺町村との合併で新市制の平戸市となりました。
(角川日本地名大辞典、日本の島ガイド、wikipediaより)