江戸時代の史料『田舎廻』には、「山田村庄屋より南方舘之濱之上在罷りとふすと申処ニも切支丹の者御成敗被成候とて其印有之候」と、千人塚の事と思われる記述が見えます。
また大正7(1918)の『生月村郷土史』には、正保2(1645)の弾圧の処刑者を埋葬した場所だと紹介されています。
かつて山田集落のかくれキリシタンの行事「風止めの願立て」、「風止めの願成就」の際には、中江ノ島から帰った後、千人塚に供物を届けていました。また千人塚は、舘浦・山田集落の鎮守・比売神社の御輿が巡幸する際の御旅所にもなっており、こうした状況は、地域住民が認識する伝説や聖地に、複数の信仰が関わる並存関係を示した、民俗学的に貴重な事例といえます。