天文19年(1550)、フランシスコ・ザビエルが平戸に来ます。松浦家25代隆信(道可)はキリスト教の布教を許し、平戸(港周辺)だけでなく、生月や度島、春日、獅子、飯良などには教会堂が設けられ、平戸では信者が1000人を越えたといいます。
その後宣教師の渡来が相次ぎ、弘治3年(1557)には隆信の重臣籠手田左衛門尉安経が入信したため、彼を慕い入信する人が急増しました。
秀吉は当初、貿易による利益のためキリスト教布教を容認しましたが、天正15年(1587)には宣教師の国外退去と各地の教会堂の取り壊しを命じます。松浦家26代鎮信(法印)も慶長4年(1599)キリスト教信者に弾圧を加え、厳しく取り締まるようになりました。
そのような中、日本に来た宣教師にイエズス会のカミロ・コスタンツォがいます。慶長10年(1605)に日本に来て、小倉や堺で布教しました。布教するためにはその国情とその国民の宗教を知らねばならないとして、日本の歴史や文学、仏教を学び、仏教に関する本も書いています。一度マカオへ追放されますが、元和7年(1621)再度入国し、ひそかに布教に努めます。しかし、翌元和8年宇久島で捕えられ、9月15日田平の野田で火刑に処せられました。
平戸オランダ商館長の日記にも、白い海岸で処刑されたと書かれています。神父をかくまった人々も家族まで含めて多くの人が処刑されました。