1550年(天文19)平戸を訪れたザビエル神父によって始まった平戸地方のキリシタン信仰は、1558年(永禄元)と1565年(永禄8)に行われた一斉改宗によって、当時籠手田氏・一部氏が治めていた度島、生月島、平戸島西岸に多くの信者を得ることになります。
1599年(慶長4)には籠手田氏・一部氏が長崎に退去、平戸藩域は禁教の時代を迎え、弾圧による犠牲者(殉教者)も出ました。しかし生月島、平戸島西岸の信者は、仏教や神道を並存させながらも、キリシタンの組を維持して聖具を祀り、行事を続け、オラショ(祈り)を継承してきました。開国後の1865年(元治2)長崎の大浦天主堂で浦上のかくれキリシタン信者がカトリックの神父との接触を果たした後から再布教も始まり、1873年(明治6)には明治政府がキリシタン禁教の高札を撤廃しますが、生月島、平戸島西岸では殆どの人が禁教期の信仰形態を続けていきます。
明治以降、かくれキリシタン信仰が継続した地域は、長崎県の平戸地方、浦上・外海地方、五島列島、熊本県の天草下島西部、福岡県の今村(大刀洗町)、大阪府の千提寺周辺(茨木市)などですが、現在組織が確認できるのは生月島(平戸市)、外海地方(長崎市)、五島旧若松町横瀬周辺(新上五島町)だけになっています。