棲霞園は通称「御花畑(おはなばたけ)」とよばれ、享保3年(1718)に再築された亀岡城の北西部にあります。
平戸松浦家第35代松浦熈(観中)により文化7年(1810)〜文政12年(1829)にかけて造園され完成にいたっています。
名前の由来は、松浦家祖先にあたる左大臣源融が作った山荘「棲霞観」を参考にしてつけられたとされています。松浦史料博物館には、「御花畑之図」絵図として8枚保管され、この絵図を観察することにより植栽や建物の様子が判るほど細かい描写が見て取れます。
文政7(1824)年の最初の絵図には杉、松、梅、楓および竹などが群落ごとに植樹し、また花壇は16〜17世紀にヨーロッパで流行した花壇迷路を意識し作られ、規模も当時としては大がかりな作りであったことが分かります。
現在の庭園の形は、元治元(1864)年に作られた最後の絵図の様相をよく残しています。その中に描かれたおよそ50基の灯籠のうち、36基ほどが現在まで大切に守られてきました。
棲霞園は藩主の意向がよく反映された大名庭園といえます。
梅ヶ谷津偕楽園の開発は、当初平戸松浦家30代棟(雄香)が「開林舎」と名付けた茶屋を作るところから始まります。
その後荒廃しますが、文政13年(1830)に平戸松浦家35代熈(観中)が開墾経学に精通した人物を募り、平戸の豪商近藤慶吉が選ばれ造園が始まり、天保14年(1843)に「民に与えて共に楽しめば、さらに楽しめる」という孟子の漢文にちなみ名づけられ完成したとされています。
松浦史料博物館に残る絵図からは、盆栽仕立ての梅や窯を設けていたことが分かり、新たな殖産興業の実験場としての機能があったり、オランダ碇が装飾やパーゴラ(つる棚)などが作られ楽しむ庭としての機能も備え、茶の湯、詩歌、蹴鞠などが行われていたと思われます。
また、火災の絶えない城下においては、非常時の避難場所として使用もされていたようです。このように梅ヶ谷津偕楽園は色々な機能を有する独特な庭として造営されたことが明らかとなっています。