大島は「肥前風土記」に記されている大家の島に比定(※1)され、天然の良港・的山湾は古くから海上交通の要衝として知られていました。御厨荘御家人と呼ばれた地頭職・大島氏は貞応3年(1244)から寛永6年(1629)までの間、大島を拠点とし、武士団松浦党の有力者として活動しています。
応永8年(1410)、室町幕府(足利義満)は明と国交を開き、まもなく勘合貿易を始め、天文16年(1547)まで19次の遣明船を派遣しています。航路付近の領主に対して特別な警固命令が出され、大島氏も渡唐船警固、異国船警固などの任務を勤め、自らも貿易を行い経済力を養っています。「戊子入明記」文正元年(1466)には、大島で朝鮮から輸入した人参を店で売っていることが記されています。
史料によると「春は肥前の国小豆(的山)浦から出発する。秋は同国五島の奈留より出発する。」と書かれており、この地域は遣明船の発着地、風待ちなどの滞在地として重要な地点でした。
文明7年(1475)、幕府が大島氏に対して第13次遣明船の警固を命じた文書に肥州小豆大嶋殿とあり、遣明船派遣時の大島の重要性は博多に次ぐほどと伝えられています。的山湾に寄港滞在した船団にとって食糧、水、薪などの補給は重要なことでした。
的山湾の近くには鎌倉幕府が警固のために派遣した武士団の寺「五乗寺」が地名として残り、全国の大山祇命を信仰した源頼朝が弓矢を奉納したという本山神社があり、その昔的山湾を通る船は帆を降ろし、大山祇命や天道山に敬意を表して静かに渡ったといわれています。
※1 他の類似のものと比較として、そのものがどういうものであるかを推定すること。