昭和63年に発掘調査が行なわれていますが、その結果、後円部のほぼ中央に板石の集中する部分があり、竪穴式石室のあった可能性がありますが、盗掘されたものと考えられています。土師器(はじき)が数10点見つかっただけで、周濠や葺き石・埴輪はありませんでした。弥生時代から続く里田原の有力者の墓で、墳形や立地から4世紀中頃の築造とされています。
3世紀から7世紀にかけて、墳丘を持つお墓が全国で作られました。古墳時代と呼ばれ、国の統一が進められた時代と考えられています。
形により円墳・方墳・前方後円墳等がありますが、円形と方形を合わせた前方後円墳は天皇や豪族の墓とされ、中央の大和政権との係わりを示すものとされています。
全国に5千基ほどあり、長崎県内では25基が知られています。そのほとんどが壱岐対馬にあり、県本土部には8基で、田平町にそのうち2基あります。