平成4・5年に発掘調査を実施し、階段状連房式登窯であることが分かりました。物原と呼ばれる焼き損じを廃棄したところからは、たくさんの陶磁器や窯道具が見つかっています。窯の作り方は耐火レンガを積み上げる当時としては新しい技術を用いており朝鮮だけでなく中国の技術が導入されたものと考えられます。
出土品の多くは、白磁や染付の磁器ですが、量は少ないですが砂目が残る陶器も見つかっています。また窯道具のサヤ鉢があることから、高級品を製作していたことをうかがい知る事もできます。
しかし、松浦史料博物館などに残る中野焼とされる焼き物は、陶胎(素焼きした陶器)に白化粧を施し、その上に呉須を用いて絵付けをし、全面に貫入(表面にはいるこまかいヒビ)がはいるもので、調査では同様の破片は検出しておらず謎も残っています。
開窯から慶安3(1650)年ごろまで当地では営まれていたと思われますが、その後は原材料の供給の問題などから、平戸領内であった三川内地区に移っていくこととなります。