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平戸の歴史文化

航路(港)を中心に発展してきた「港市平戸」

平戸地方には、氷河期の旧石器時代の遺跡が多く分布していて、石器の特徴から一部の集団が朝鮮半島から移住してきたと考えられています。縄文時代には定住化が進むほか、魚貝や海藻などの水産物をとる漁ろう活動が盛んになり、土器や石器の特徴から朝鮮半島との交流が確認されています。

弥生時代になると、水田稲作が大陸からもたらされ、里田原(さとたばる)遺跡では水田遺構とともに農耕に関する多くの木器が発掘されています。平戸島西海岸にある根獅子(ねしこ)遺跡では、南海産ゴホウラ製貝輪が出土していることから、沖縄・奄美地方との交流があったようです。

古墳文化の痕跡として、田平(たびら)地区に2基の前方後円墳と、生月島や的山大島(あづちおおしま)、度島(たくしま)、平戸島北部に小規模な円墳が確認されています。高塚式古墳の造営は大和政権との関係がうかがえ、生月島の小円墳は海上交通や漁ろう活動を生業とする集団の指導的立場にあった人の墓と考えられます。

7世紀以降、大和朝廷は中国の王朝との接触を盛んにし、遣隋使、遣唐使を派遣します。当初は朝鮮半島西岸沿いを北上する航路を利用しましたが、大宝2年(702)の第7回以降は、博多湾から平戸、五島を経て、東シナ海を一気に横断して中国大陸に至る南路(大洋路)を利用するようになります。

寛平6年(894)遣唐使の派遣が菅原道真の建議によって廃止されますが、この頃には、日中間の交流は、国家による使節の往来から、新羅や唐の民間海商の活動に移行していました。それらの国の商船は、中国に来航していたイスラム商船の影響を受けて高い航海能力を有し、遣唐使が開いた航路を、より安全に航行する事ができました。この時期以後、約800年にわたって、この航路「南路(大洋路)」は、日本と中国を結ぶ最も重要な航路となって「人、物、文化」を伝えています。

航路図 南路(大洋路)

南路は、博多を起点とし、平戸、五島列島を経由し、中国側の寧波を終着点とする航路です。この航路を、毎年中国の商船が往来し、日中の様々な文物を運び、留学僧なども同乗しています。博多や平戸などには中国人が多数居住し、貿易に絡んだ業務に従事しています。

南路の港となった場所からは、石製の碇(碇石)が発見されていて、港町平戸の中心には、宋元代の中国の航海神・招宝七郎を祀る廟(七郎宮)が設けられました。

港から引き上げられた碇石
七郎宮で年中行事を行っている様子
年中行事絵巻:(財)松浦史料博物館蔵

宋代以降、中国では北方の騎馬民族と戦うために、様々な火薬兵器を用いるようになります。火薬の原料(硝石、木炭、硫黄)のうち、硫黄は火山から産出されるため中国では取れず、九州南端沖にある硫黄島(喜界島)で採掘されたものが九州西岸を通り、南路の貿易船へと運ばれました。時期を同じくして、博多周辺、平戸島周辺、薩摩半島南部では、寧波(明州)近傍で産出する梅園石で製作された薩摩塔や宋風狛犬が建立され、現在も残っています。平戸では志々伎山(しじきさん)、安満岳(やすまんだけ)、田平地区の海寺跡などに残り、密教系山岳寺院の所在地に、中国人海商が奉納したと考えられています。

平安時代末期以降には、臨済宗の祖・栄西や曹洞宗の祖・道元など、禅宗を修めるために渡宋する僧が現れます。日宋の禅宗寺院のネットワークは、貿易にも影響力を発揮するようになり、建久6年(1195)に博多に建立された臨済宗の聖福寺を始め、平戸も含め南路沿岸に建立された禅宗寺院は、以後、遣明船の時代にかけて、貿易や外交に伴う役割を担っています。

鎌倉時代から南北朝時代にかけては、日中双方が戦乱に見舞われた事で、南路の貿易活動も影響を受けたと思われ、貿易活動に様々な形で依存していた沿岸諸氏の経済基盤を脅かし、彼らが独自の対外活動に走った結果が、この時期、朝鮮の沿岸を荒らし回った倭寇と呼ばれる活動のひとつの要因ではないかと考えられます。

元の滅亡後に建国された明は、民間貿易を禁じ、国家間の使節の往来に伴う朝貢貿易の形を整えますが、室町幕府もこれに対応し、応永8年(1401)から天文18年(1549)にかけて20回程度、遣明船が派遣されています。

1540~50年代には、銀を求めて中国の私貿易商人が盛んに渡航してくる状況になります。南路の中間となる平戸港は、彼らの日本側の窓口となり、倭寇の頭目・王直(おうちょく)が屋敷を構えました。

天文19年(1550)には、ポルトガル船が初めて平戸に来航し、船員にミサを行うため、前年鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルも平戸を訪れます。平戸における布教は、当初は平戸港周辺での個別の布教でしたが、永禄元年(1558)と永禄7年(1565)には、生月島、度島、平戸島西岸の籠手田(こてだ)・一部(いちぶ)領で一斉改宗が行われています。村々には教会や十字架が建てられ、信者は信仰の組によって様々な行事を行い、オラショという祈りを唱えました。慶長5年(1600)頃には、聖画を祀って信心を行う組が生月島で設立されますが、当時のキリシタン信仰の形態は、禁教時代にも保持され、こんにちの「かくれキリシタン信仰」まで継承されています。

かくれキリシタン信仰
納戸神と呼ばれるご神体

慶長14年(1609)平戸港にオランダ船が来航し、オランダ商館が設けられます。オランダ人相手の貿易量は1630年代に入って飛躍的に増大します。慶長18年(1613)にはイギリス船が平戸港に来航し、商館も設けられています。また、平戸からは朱印船も出航しています。寛永18年(1641)には幕府の命令でオランダ商館が長崎に移され、海禁政策もあいまって平戸の800年にわたる海外貿易港としての歴史は幕を閉じる事となります。

9世紀には確立し、17世紀初頭まで使用された、博多と寧波を結ぶ航路(南路)は、長く日本の最も重要な対外航路として機能してきました。この南路は、中継港としての平戸港を通過していて、その際にもたらされた異文化の受容は、平戸港を中心として更にその周辺地域へと航路や街道によって様々な形で影響(アーチの技術、南蛮菓子など)を与え続け、在来の伝統文化や生活生業とともに各地域を特徴づける要素として集積し、現在にまでその痕跡を色濃く引き継いでいます。

国際交流の窓口であった平戸港
平戸オランダ商館
アーチの技術(幸橋:オランダ橋)
南蛮菓子(カスドース)