南蛮貿易の拠点だった「平戸」
日本の西端に位置する平戸は、古くから大陸との交易が盛んに行われる場所でした。
15世紀頃から始まった西欧諸国による積極的な海外進出を大航海時代と呼び、その波は16世紀なかばの日本にも押し寄せます。
それから約1世紀にわたり、日本とポルトガル、スペインの間で行われた交易「南蛮貿易」でも、平戸は重要な役割を担っていました。
その頃、江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、その拠点として設置したのが「平戸オランダ商館」です。
やがて、江戸幕府の方針で、キリスト教(カトリック)の禁教や、海禁政策(個人の海外渡航や他国との貿易の制限)がすすめられるようになると、「オランダ商館」は長崎出島へと移転され、「平戸オランダ商館」は、その33年間の歴史に幕を下ろしました。
オランダ商館とその周辺の遺構をめぐる
現在、「平戸オランダ商館跡」は国指定史跡の指定を受け、復元された倉庫に、関連資料などが展示されています。
海辺にたたずむ白い建物は圧巻。
当時の海外との貿易が日本人にもたらした驚きや興奮が伝わってくるようです。
「平戸オランダ商館」周辺には、他にも、当時のようすを伝える遺構が多く残されています。
「オランダ埠頭」は、当時オランダ商館の船着き場として使用されていたもの。
潮の満ち引きにあわせて、人々がここから船に乗り降りし、積み荷の上げ下ろしが行われていました。
そのすぐ目の前には、「オランダ井戸」と呼ばれる、立派な石枠の井戸が。
オランダ商館跡の裏手に登る坂道には、30mほどの石塀が続いており、「オランダ塀」と呼ばれています。
この塀の東側に、オランダ商館の倉庫、火薬庫、病室等があったのだそう。
この分厚い石塀は、その目隠しとして作られたのだとか。
平戸市役所の前、幸橋のたもとには、オランダ船の錨も展示されています。
風化した大きな錨から、当時の貿易の様子が伝わるようですね。
平戸で活躍した外国人たちゆかりの地を巡る
オランダ商館跡から程近い「崎方公園」内には、「三浦按針の墓」や「フランシスコ・ザビエル記念碑」など、大航海時代の歴史に関連するスポットが多くあります。
「三浦按針」とは、日本に最初に来たイギリス人「ウィリアム・アダムス」の日本名。
オランダ船に乗って日本に流れ着き、徳川家康に召し抱えられ、外交顧問として活躍した人物で、平戸には1613年にやって来ました。
市街地には「按針の館」という建物も。
平戸のまちを散策していると、度々この名前を目にすることからも、今も市民に親しまれていることが分かります。
日本に初めてキリスト教を伝えたことで有名な「フランシスコ・ザビエル」は、平戸でも布教を行っており、何度もこの地を訪れています。
崎方公園の「フランシスコ・ザビエル記念碑」は、ザビエルの日本渡来400年を記念して建てられたもの。
かわらしいグリーンの壁が特徴的な「平戸ザビエル記念教会」には、教会脇にザビエル像も建てられています。
海外の技術が詰まった「オランダ橋」
平戸市役所の脇に架かる「幸橋」は、平戸城と城下町の往来に使用されていた橋。
江戸時代に埋め立てが行われる以前は、平戸港は、現在より深くまで湾が入り込んでいたため、行き来が不便でした。
この橋が出来ると、お城へ行き来するのに「幸い」なルートとして重宝されたのです。
オランダ商館の建造に携わった日本人石工が、地元の石工たちに伝授した石積みの技術が、この橋の建造に用いられたといわれているため、別名「オランダ橋」とも呼ばれています。
南蛮貿易をはじめとする海外交流の拠点として、多くの外国人が行き来し、多くの文化や技術が流れ込んできたことは、当時の平戸の人々にとって、驚きや興奮の連続であったはず。
平戸港周辺に残された、当時の遺構に触れながら、その歴史を紐解く旅に出てみませんか。
ここから歩いて6分程の場所に、幸橋を架ける前に試作品として造られたといわれる「法音寺橋」が残されています。
西洋の新しい技術を取り入れるため、当時の石工たちが試行錯誤する様子が想像されますね。