産業としての捕鯨が根付いていた「的山大島」と「生月島」
長崎県平戸市の北部は、古くから捕鯨文化との深い関わりがありました。
この地域には、鯨漁をする「鯨組」が各地で漁をおこない、大きな産業になりました。
実際に平戸を訪れると、その形跡や資料がたくさん残され大切に保存されているのを目の当たりにすることができます。
江戸時代の始めには平戸で、銛(もり)等を使って突いて漁をする「突組」という鯨組が組織されています。
生月島では、享保10年(1725)に益冨家の「突組」による捕鯨が始まります。
享保18年(1733)以降になると、鯨に網を掛けてから突き取る「網組」に移行して西海各地の漁場に進出していきました。
幕末以降、西洋の捕鯨船の活動の影響で捕獲量が減少したため、網組は廃止されていきます。
しかしその後も、鯨組で培った大規模漁業のノウハウは、その後の巾着網(遠洋まき網)の経営にも活かされていきました。
明治時代には、旧平戸藩主の橘成彦らが設立した鯨猟会社が、平戸瀬戸などで、1882年に捕鯨銃などを用いた銃殺捕鯨を始め、1947年頃まで行われていました。
平戸に根付いた捕鯨文化
古式捕鯨業の時代の西海では、捕鯨の主な目的は鯨油の生産にありました。
鯨油は当初、明かりを灯す油に用いられますが、18 世紀になると鯨油を田に撒いて害虫を駆除する方法が広まり、さらに需要が増えていきます。
鯨は、鯨髭が細工物のバネに、筋が綿打ちの弓の弦に、さらに鯨油を煮出した後の骨は砕かれて肥料にするなど、あらゆる部位が利用されていました。
命を奪った鯨は、捨てる部分がほとんどないほどに余すことなく活用され、最後には大切に供養されました。
平戸市内にある最教寺や緑丘神社には、銃殺捕鯨を行った会社が奉納した「鯨供養塔」が残っています。
鯨の命を奪って生計を立てることに対する感謝と弔いを込め、人々は鯨を供養したのです。
朱色の三重大塔がそびえる最教寺は、弘法大師( 空海) の霊場として名高いお寺です。
敷地の奥、お地蔵様が並ぶ先に、鯨供養塔が建立されていました。
生月島に残る「益冨組」の捕鯨文化の痕跡
1725年から捕鯨業に進出した生月島の「益冨組」は、最盛期の19世紀前期には5つの組を経営し、3000人を雇用する日本最大規模の鯨組となっていました。
当時網干場だった場所は、「御崎浦海浜公園」として地元民に親しまれているスポット。
大人でも興奮するような大きな船の遊具が、御崎浦の海を望んでたたずんでいます。
当時「網干場」だった場所には、網が乾きやすいように、石が敷き詰められています。
鯨を捕まえるために使われた大きな網が、ここに広げられていた様子を思い浮かべながら、御崎浦を望む景色を楽しむことができます。
当時の益冨組の屋敷や、鯨組の拠点となる「納屋場」、鯨の発見を知らせるための「山見」と呼ばれる施設の跡、益冨組が奉納した鳥居などが今も残っています。
壱岐や五島灘にも鯨組を派遣しており、日本における捕鯨文化の発展にも寄与していたと言っても過言ではありません。
生月島には、余すことなく鯨の各部位を活用するために、分業して加工をおこなった「納屋場」の跡地が残っています。
的山大島に残る「井元組」の捕鯨文化の痕跡
生月島の北側にある的山(あづち)大島でも、江戸時代には捕鯨が盛んに行われていました。
的山(あづち)大島には、井元家が経営をおこなった鯨組「井本組」の漁や生活の様子を伝える史跡が残っています。
井元組が本拠地にした「神浦集落」は、国の伝統的建造物群保存地区に指定されています。
奥まった入り江の周りに、江戸時代中期から昭和初期の町屋が密集して立ち並び、高台には寺社や墓地が、背後の斜面の上には農村集落がありました。
町屋が立ち並ぶ路地の風景の中に、中世の漁村集落から鯨組の創業、捕鯨の廃業後に港町となった歴史を伝える、貴重な場所となっています。
捕鯨の文化を今に伝える
生月大橋のすぐそば、博物館「島の館」には、平戸の捕鯨の歴史にちなんだ資料が展示されています。
入口正面に親子鯨のモニュメントが出迎えてくれる「島の館」。
鯨の骨の巨大な標本は大迫力。江戸時代の捕鯨の様子を再現したジオラマも見応えたっぷりです。
この他にも、当時使われていた道具や、捕鯨の様子を伝える貴重な文書などが展示されています。
時代によって変化する捕鯨の方法なども展示から学ぶことができます。
当時の道具や模型を見て、島の館で学んだあとは、実際に生月島に残された、鯨組の史跡をめぐって楽しんでみてください。