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「捕鯨文化が根ざし栄えた、歴史の痕跡を辿る生月の旅」

高台から海を望む

平戸に根付いた捕鯨文化

当時「山見」があった鞍馬鼻

古式捕鯨業の時代の西海では、捕鯨の主な目的は鯨油の生産にありました。
鯨油は当初、明かりを灯す油に用いられますが、18 世紀になると鯨油を田に撒いて害虫を駆除する方法が広まり、さらに需要が増えていきます。
鯨は、鯨髭が細工物のバネに、筋が綿打ちの弓の弦に、さらに鯨油を煮出した後の骨は砕かれて肥料にするなど、あらゆる部位が利用されていました。

最教寺の鯨供養塔

命を奪った鯨は、捨てる部分がほとんどないほどに余すことなく活用され、最後には大切に供養されました。
平戸市内にある最教寺や緑丘神社には、銃殺捕鯨を行った会社が奉納した「鯨供養塔」が残っています。
鯨の命を奪って生計を立てることに対する感謝と弔いを込め、人々は鯨を供養したのです。

最教寺

朱色の三重大塔がそびえる最教寺は、弘法大師( 空海) の霊場として名高いお寺です。
敷地の奥、お地蔵様が並ぶ先に、鯨供養塔が建立されていました。

的山大島に残る「井元組」の捕鯨文化の痕跡

的山大島

生月島の北側にある的山(あづち)大島でも、江戸時代には捕鯨が盛んに行われていました。
的山(あづち)大島には、井元家が経営をおこなった鯨組「井本組」の漁や生活の様子を伝える史跡が残っています。

的山大島にある「鯨供養塔」
的山大島「茶屋の坂」 的山大島「勘定場の井戸」
神浦集落の街並み

井元組が本拠地にした「神浦集落」は、国の伝統的建造物群保存地区に指定されています。
奥まった入り江の周りに、江戸時代中期から昭和初期の町屋が密集して立ち並び、高台には寺社や墓地が、背後の斜面の上には農村集落がありました。

神浦集落の街並み

町屋が立ち並ぶ路地の風景の中に、中世の漁村集落から鯨組の創業、捕鯨の廃業後に港町となった歴史を伝える、貴重な場所となっています。