稲作の伝来
九州西端部に位置する長崎県平戸市では、海を利用した交流が盛んに行われてきました。
平戸には、いたるところに、古くから海外との交流があったことを示すような遺跡や遺構、史料が残されています。
古くは弥生時代、大陸から稲作がもたらされたことがわかる遺構が残されているのが「里田原(さとたばる)遺跡」です。
平戸瀬戸に程近い田平町にある水田遺構からは、稲作に用いられた多くの木器が発掘されており、平戸市役所田平支所のロビーにその一部が展示されています。
田平支所の裏手には、いまも四角形に区切られた広大な水田が広がっており、条里制のなごりではないかと考えられています。
里田原では、縄文時代の終わり頃に朝鮮半島から伝わったといわれる「支石墓」も見つかっており、稲作と共に、大陸からさまざまな文化が流入したことがわかります。
遣隋使や遣唐使の派遣
7世紀以降、朝廷は中国の王朝との交流のため、遣隋使や遣唐使を派遣しました。
空海が、唐に渡ったのもこの頃(804年)のことです。
今の平戸市大久保町田の浦には、弘法大師(空海)の石像「渡唐大師像」が建てられています。
風に衣服をたなびかせて海の向こうの唐(中国大陸)を指さす空海の大きな石像は、台座を含め16メートルもあり、日本でも有数の規模を誇る大きさなのだそうです。
9世紀以降、それまで朝鮮半島沿いに北上していた日本から中国大陸への航路は、博多から平戸、五島を経て寧波(ニンポー)に直接向かう航路を使用するようになり、平戸は「人・物・文化」を運ぶ重要なルートの通過点となりました。
平戸には、多様な文化等が流入するようになっていったのです。
禅とお茶を持ち帰った栄西禅師
宋で臨済禅宗を習得した栄西禅師が、1191(建久2)年に帰国し、日本で初めて禅の紹介をおこなったとされているのが「冨春庵」。
この「冨春庵跡」には、栄西が座禅をしたと伝えられる「座禅石」が残っています。
このとき、中国から持ち帰った茶の実をまいたと言われています。
16世紀、多くの中国人商人が活躍
15世紀に遣明船の寄港地となった平戸には、16世紀に入ると、多くの中国人海商が銀を求めて訪れるようになりました。
その頭目である、明の海商・王直(おうちょく)も、1541(天文10)年に平戸に屋敷を構え、ここで栄華を極めました。
今も、王直の屋敷があった跡地が残されています。
その後も鄭芝龍(ていしりゅう)などの海商が平戸を拠点として活動し、オランダ商館は生糸など、日本向けの商品を安定的に手に入れることができるようになります。
後に台湾を解放した鄭成功(ていせいこう)は、芝龍と日本人女性の間に生まれた子どもで、平戸にはその出生にちなむ児誕石(じたんせき)と呼ばれる史跡も残されています。
鄭成功の生家をイメージした「鄭成功記念館」には、中国との繋がりを示す史料が展示されています。
西洋との交流
1550年には、ポルトガル船が平戸へ来航し、西洋との交易が始まると、それとともにキリスト教も伝播していきます。
南蛮貿易で伝えられた様々な文物や信仰などは、港を通して周辺地域に広がりをみせながら、その一部は今日まで継承されています。
オランダとの交流が盛んに
1609年にはオランダ船が来航し、「平戸オランダ商館」が設けられます。
平戸オランダ商館の貿易活動は、三浦按針(ウィリアムアダムス)の尽力もあって次第に活発になり、台湾や東南アジア各地を結んで盛んに貿易が行われました。
この他にも、「幸橋(さいわいばし)」や「錨石(いかりいし)」などの石造物、かくれキリシタン信仰、松浦史料博物館の貴重な文物、そして平戸オランダ商館跡周辺に集積する文化財など、平戸が長い間外国と繋がりがあったことを示すものがたくさん残されています。
「平戸オランダ商館」で史料に触れる
特に、1639年に築造された巨大な石造倉庫は、約50センチ四方の巨大な柱を用いたもので、日本に建てられた初期の西洋建築でした。
1639年に築造された巨大な石造倉庫は、約4世紀の時を経て復元され、現在は「平戸オランダ商館」として平戸港のシンボルになっています。
館内では、平戸とオランダとの交流の歴史を知る貴重な史料を見ることができます。
ひとつひとつのスポットをめぐり、当時の面影を目にし、その空気を肌で感じていると、平戸の歴史を順に辿る時間旅行をしているような気持ちになってきます。
その長い歴史のページをめくるように、平戸の地を巡ってみるのもいいかもしれません。