長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

平戸・キリスト教布教の歴史

①西の都「平戸」で布教が始まる

日本国内で、各地の大名が領地を広げようと互いに争っていた戦国時代のさなかの1550年(天分19年)すでに海外との交易が盛んだった平戸の港に、日本で初めてポルトガル船が入港します。そして時を同じくして、宣教師フランシスコザビエルが平戸を訪れ、キリスト教の布教を始めます。平戸港には後に「天門寺」と呼ばれる教会堂も建てられます。

②集落に教会堂が建ち、キリスト教が広がる

当時、平戸を納めていた松浦氏(隆信)は、交易の上でもよいことだと考え、家臣の籠手田氏と一部氏がキリスト教に改宗することを許します。
彼らは、1558年(永禄元年)と1565年(同8年)に、彼らの領地だった生月島や平戸島西海岸地域の住民をキリスト教に改宗し、日本における最初のキリスト教繁栄の地となりました。当時広まったキリスト教とそれを信じた信者は「キリシタン」と呼ばれました。

③キリスト教の弾圧が始まる

戦国時代を終わらせるため、全国統一を進めていた豊臣秀吉は、1587年(天正15年)にキリスト教の宣教師を国外に追放する法令(伴天連追放令)を出しますが、平戸で本格的に弾圧が始まったのはそれまでキリスト教に寛容であった松浦氏が亡くなった1599年(慶弔4年)からで、籠手田氏と一部氏は領地を去らねばなりませんでした。

④潜伏し、ひそかに信仰を伝える

それまで集落にあった教会堂や十字架は壊され、人々はお寺や神社を受入れますが、キリシタンの信仰も密かに続け、「潜伏キリシタン」と呼ばれています。

家の奥に「納戸神」と呼ばれる御神体をおまつりし「オラショ」というキリシタンの祈りの言葉を唱えながら、信仰を受け継いでいきました。

 

 

⑤密かに信仰をつたえてきた行事などを続ける

禁教が解かれたあとも、禁教時代に密かに守ってきた信仰の仕方を継続した人たちがいました。彼らと彼らの信仰は「かくれキリシタン」と呼ばれています。彼らは、この地で信仰を守って亡

くなった祖先と亡くなった場所を聖地として崇拝しています。
彼らは、こんにちのキリスト教(カトリック)とは異なり、教会を持たず、また禁教時代に取られた、かくれキリシタン信仰と、仏教や新道を並行して行うスタイルをそのまま続けています。しかし、かくれキリシタン信仰だけに注目すると、戦国時代から江戸時代のはじめにかけて行われていたキリシタンの信仰の姿を、概ね保持していると考えられるのです。

⑥ふたたびキリスト教の信仰を行う

1853年(嘉永5年)のペリーの来航で、日本の鎖国は終わりますが、その後、長崎の外国人遺留地に建てられた大浦天主堂に潜伏キリシタンが訪れたことで、日本に長い禁教時代を耐えて、キリシタンの信仰を続けた人々がいたことが、広く知られることになります。
1873年(明治6年)には、明治政府がキリスト教の近況を解除することになり、カトリックの神父が各地で布教を行った結果、大勢の潜伏キリシタン信者が合流し、潜伏信者の集落には、教会堂が次々に建てられていきました。

■資料引用・お問合せ 平戸市文化観光商工部 文化交流班 0950-22-4111(代)