1832年(天保3)刊行の捕鯨図説『勇魚取絵詞』を見ると、当時御崎浦にあった益冨組の納屋場では、前面の波打ち際で鯨の解体が行われ、陸上には鯨の加工を行う大納屋、小納屋、骨納屋、筋納屋のほか、船や道具の修理をする前作事場に関連した建物群、多くの従業員が暮らす長屋などが所狭しと並んでいました。
生月町博物館・島の館では、明治期の平面図を所蔵しています。
現在、納屋場の建物はわずかに礎石を残す程度ですが、北側斜面には納屋場の守り神として祀られてきた岬神社の石祠が残り、祠の屋根には益冨組の船印と組の紋が刻まれています。また以前ここに祀られていた鯨恵比須像は、現在、壱部浦の白山神社に合祀されています。
また納屋場の後背地には、他所から鯨組に働きに来ていて亡くなった人達の墓地があり、墓碑銘には備後田島(広島県福山市)から来た網漁師の名も確認できます。
御崎浦の南側にある古賀江浦は、捕鯨に用いた苧(麻)網を干す網干場として利用され、現在も60cmほどの大きさの多角形の平石を敷き詰めた網干場の遺構が、海浜公園の中に保存されています。